白髪先生の真髄 ― 2014年12月10日 18:36
年末になりボトボチ堆積した書類や資料を片付け始めているが遅遅として進まない。目を通したはずの資料から発見すること多々あるから。
読み直してぐいぐい浸透してくるのだ、やっと今。
その極は「具体グループの十年」へのコメント(1963/3 美術ジャーナル)の白髪先生の言葉、これほど白髪一雄の画業の本質を突いたものはないのでは、一言一句も省けない文章である。
宝の山は足下に在り。
<行動の軌跡、その以前と以後>白髪一雄
我々は、我々の絵画がアクションペィンティングなる分類に入ることも、欧米に抽象表現主義が台頭して世を風靡していることを知らなかった。すくなくとも、私は知らなかった。1955年頃の具体美術の殆どが、行動の軌跡を絵画表現としていた頃のことである。それまでは、従来の方法によってタブローが作られ、展覧されていたのだが、狂暴的にさえ思える作画方法が、会員達のあいだでおこなわれるようになってからは、我々の絵画芸術は、他のグループや個人のそれとは別の感覚を発揮し、その特色を確固としたものまでに成長した。私はそれ以前、掌や足の裏によって描くことで、一つの皮膚感覚をマチュールとする絵画表現に没頭していたが、未だにそれはアクションペィンティングとはいえないような力弱いタブローであった。
しかし足の裏で描くことがはじめられたときに、私の絵画は行動の軌跡として発展する運命にあったのだ。
それは日をへるにしたがって、激しさを増し、ほとばしる生命感を奔流のように繰り出し、画面の上に漲らせた。
かくして行動の軌跡を表現したアクションペィンティングが完成し、軌道にのって数多くの作品が出来たが、今にして私は行動の軌跡の限界を感じ始めた。
足で画面の上を滑り回って出来る軌跡の絵画にある単純さを感じるとき、私はそれ以後の仕事の輪郭がぼんやりとではあるが、見えはじめた。
それは激しい行動の軌跡より感じるさせる単純な生命感ではなく、意思の力によって導き出された生命の一瞬のドラマを、永久に定着して物すごい圧倒感を人々に感じさせるのである。今、私はこう複雑なドラマの展開に必死になって取り組んでいるのである。
読み直してぐいぐい浸透してくるのだ、やっと今。
その極は「具体グループの十年」へのコメント(1963/3 美術ジャーナル)の白髪先生の言葉、これほど白髪一雄の画業の本質を突いたものはないのでは、一言一句も省けない文章である。
宝の山は足下に在り。
<行動の軌跡、その以前と以後>白髪一雄
我々は、我々の絵画がアクションペィンティングなる分類に入ることも、欧米に抽象表現主義が台頭して世を風靡していることを知らなかった。すくなくとも、私は知らなかった。1955年頃の具体美術の殆どが、行動の軌跡を絵画表現としていた頃のことである。それまでは、従来の方法によってタブローが作られ、展覧されていたのだが、狂暴的にさえ思える作画方法が、会員達のあいだでおこなわれるようになってからは、我々の絵画芸術は、他のグループや個人のそれとは別の感覚を発揮し、その特色を確固としたものまでに成長した。私はそれ以前、掌や足の裏によって描くことで、一つの皮膚感覚をマチュールとする絵画表現に没頭していたが、未だにそれはアクションペィンティングとはいえないような力弱いタブローであった。
しかし足の裏で描くことがはじめられたときに、私の絵画は行動の軌跡として発展する運命にあったのだ。
それは日をへるにしたがって、激しさを増し、ほとばしる生命感を奔流のように繰り出し、画面の上に漲らせた。
かくして行動の軌跡を表現したアクションペィンティングが完成し、軌道にのって数多くの作品が出来たが、今にして私は行動の軌跡の限界を感じ始めた。
足で画面の上を滑り回って出来る軌跡の絵画にある単純さを感じるとき、私はそれ以後の仕事の輪郭がぼんやりとではあるが、見えはじめた。
それは激しい行動の軌跡より感じるさせる単純な生命感ではなく、意思の力によって導き出された生命の一瞬のドラマを、永久に定着して物すごい圧倒感を人々に感じさせるのである。今、私はこう複雑なドラマの展開に必死になって取り組んでいるのである。
白髪一雄は噺の達人 ― 2014年12月11日 19:02
白髪一雄は噺の達人
王子公園の兵庫県立近代美術館の最後の展覧会は「アクションペインター白髪一雄展」でした。
その時の白髪先生のレクチャーがおもしろかったこと今もよう憶えています。これはレクチャーとゆうより<落語>ですわ。そのへんの落語家の噺よりよっぽど上手いと思いました。
柔らかなニュアンスのある上方言葉りにすっかり惹き込まれてしまいました。
後に先生にそのこといいましたら~東京ではアカンのや、東京人にはこのニュアンスが伝わらへんのや~とゆうておられましたが、 SHIRAGAの作品にもこの関西の上方の風土ならではの感性が根底を成しているのは確かです。
~ある昼にぃ、富士子と難波のデパートの食堂におりましたらなぁ、4人組のおばさん達がえらい勢いで入ってきはりましたんや、えらい勢いで、まるで猪みたいに。
そしてビールを飲み出しましたんや、その中の赤い服をきたこんな大柄なおばさんが大けなジョッキでビールをぐいぐい飲み出しましたんや、この「憤牛」はその時のイメージですわ~
「憤牛」 1999 年 ( この作品は名門の”the San Francisco Art Institute”にコレクションされています)
P.S. この詞は白髪先生の制作の理解に繋がりますね。
~ 目前に誰の滑り跡も無い一面の銀世界が広がり、白い輝く処女雪のスロープがあった。ここを自由自在に滑走してやろうという、壮快な気持ちが湧き上がって来たのであった。(アクションペインター白髪一雄展図録より)
王子公園の兵庫県立近代美術館の最後の展覧会は「アクションペインター白髪一雄展」でした。
その時の白髪先生のレクチャーがおもしろかったこと今もよう憶えています。これはレクチャーとゆうより<落語>ですわ。そのへんの落語家の噺よりよっぽど上手いと思いました。
柔らかなニュアンスのある上方言葉りにすっかり惹き込まれてしまいました。
後に先生にそのこといいましたら~東京ではアカンのや、東京人にはこのニュアンスが伝わらへんのや~とゆうておられましたが、 SHIRAGAの作品にもこの関西の上方の風土ならではの感性が根底を成しているのは確かです。
~ある昼にぃ、富士子と難波のデパートの食堂におりましたらなぁ、4人組のおばさん達がえらい勢いで入ってきはりましたんや、えらい勢いで、まるで猪みたいに。
そしてビールを飲み出しましたんや、その中の赤い服をきたこんな大柄なおばさんが大けなジョッキでビールをぐいぐい飲み出しましたんや、この「憤牛」はその時のイメージですわ~
「憤牛」 1999 年 ( この作品は名門の”the San Francisco Art Institute”にコレクションされています)
P.S. この詞は白髪先生の制作の理解に繋がりますね。
~ 目前に誰の滑り跡も無い一面の銀世界が広がり、白い輝く処女雪のスロープがあった。ここを自由自在に滑走してやろうという、壮快な気持ちが湧き上がって来たのであった。(アクションペインター白髪一雄展図録より)
白髪一雄は噺の達人 つづき ― 2014年12月23日 13:43
資料を整理していたらこんなハガキが見つかりました。
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