菅井さんと元永さんの真夏の一本勝負?2016年07月21日 12:39

このところギャラリーに来ると私の細胞の活性度バロメーターがピンとハネ上がります。
それはこの菅井さんと元永さんの作品です。
なんと絶妙なコンビネーションでしょうか!私は見る度に惚れ込んでいくのです。
このあっけらかんとしたふてぶてしさ、図太さに。
この共通する感性は KANSAI の風土に根ざすものではないでしょうか?
菅井 さんは1919年、元永さんは 1922 年生れ、お二人ともコテコテの関西訛りのKANSAI人でした。
そしてお二人は世界を舞台に活動されました。私は KANSAIU という風土への探究心が深まるのです。
画家は滅してもその分身の作品は生命を輝かせている、それはここに菅井さんと元永さんがいやはることなのです。
これ程自分のギャラリーに惚れ込んだことは無かった、と思う日々です。

避暑に最適「始皇帝と大兵馬俑」2016年07月07日 15:16

中之島の国立国際美術館の地下に降りる構造ががこれほど活かされた展覧会は初めてだ。
酷暑から逃れてエレベーターを降りていくと冷っとした風がたちまちに現実から逃避させる。
まるで洞窟に入ったように思わせる展示空間。
豪華な玉胸飾りに見惚れ、精密な鼎・釜・壺や武具や瓦に秘められた計りしれぬ時間に溜息、
はたまたインフラ水道管に感嘆する。
あのぎっしり詰まった兵馬俑の群団を想いながらもう一階エレベーターを降りて行く。
えぇ、少ないなぁ!そりゃそうだ、あれは発掘現場だもの。
「将軍俑」「軍史俑」「歩兵俑」「立射俑」「蹲射俑」「騎兵俑」「軍馬」「御者俑」「馬丁俑」「 雑技俑」
それに始皇帝の先導車の銅馬車軍団。
あの莫大な兵馬俑の中からセレクトにセレクトを重ねたことだろう。
何よりもそのリアリズムに感嘆させれた。一人一人、一物一物の存在がひしひしと伝わってくるのだ。
あの 8000体の人物が実際の人間に即して作られている、なんて思うだけで気が遠くなってくる。
そのスケール、その執念、人間の何がなせるのだろうか?

奏は元々山間で農耕と牧畜を営む小さな国で会った。
国が滅ぶと、使用された文物は流出し、奏で再利用されたとか、人材もしかりであったとか、
そして西や北の異文化を吸収していったとか、そして巨大帝国になった。
その巨大帝国の権力者はやがて神になった?
壁画の馬車に車輪が描かれていないのは神秘の存在であった始皇帝を表しているとか。
酷暑の土佐堀川を眺めていると兵馬俑が軍団を成して流れていく、、、

辻晉堂「来去任西東」2016年06月29日 18:26

辻晉堂の「来去任西東」は京阪・淀屋橋の開業時に設置された。開業が 1963年だからちょうど50 年になる。
行き交う人々は顧みることなく通り過ぎて行くが、まるで駅の主のように鎮座している。
それは高僧の只管打坐している姿?いえいえ違うなぁ、羅漢さんがサミットしているんだ!
もしこの彫刻が話し出したら喧々囂々と電車や人々の騒音以上に喧しいのでは。
1963年といえば 晉堂さんは53 歳、最も脂の乗りきった時代である。その中でもこの作品は代表作になると思う。
美術館の展覧会に展示して欲しいがこの形態では動かすことができないだろうが、せめてスポットでも当ててもらえないかなぁ。辻晉堂さんは彫刻と陶芸の垣根を壊した戦後美術の立役者ですよ。

<参照>
1910年鳥取県に生まれる。1981年没する。本名汎吉。1931年上京し、32年から33年にかけて独立美術研究所に学ぶ。33年日本美術院展初入選の後、同展に彫刻を出品。1935年美術院研究所に入り、同年の美術院展で受賞、翌年院友に推挙される。1938年得度し、翌年晉堂の名で出品した作品が日本美術院賞を受賞。1941年42年連続して院賞を受賞し同人となる。1949年京都に移り、京都市立美術専門学校、同美術大学、同芸術大学教授を歴任し、堀内正和とともに多くの後進を指導した。1955年から人体の大担な変形を試み、翌年〈寒山拾得〉などの陶彫を発表する。この頃から次第に陶彫への関心を強める一方、抽象的な表現に傾斜し日本の抽象彫刻に独自の地位を占めた。1957年サンパウロ・ビエンナーレ展、1961年ピッツバーグのカーネギー国際美術展など各国の展覧会に出品する他、71年京都国立近代美術館の「近代日本の彫刻」展など我が国の近現代彫刻史をたどる展覧会に出品している。(徳島県立美術館データーより)

創造は混沌の坩堝から ポール・スミス展2016年06月12日 19:13

私のお気に入りのブランド、ポール・スミスの展覧会を岡崎の京都近美に見に行った。
入るや、ちょっといつも違う雰囲気。
フアッション関係らしき若者が多く来ているからだ、合点!
再現された店舗や仕事場、それに膨大な雑多なコレクションの展示。
映像作品はポールの脳味噌の膨大な集積を再現しているようで興味が尽きず見入ってしまった。
なににも興味を持つ無垢な好奇心、こ彼の尽きない好奇心こそがポールの創作の原点であることが改めて体感させられた。
そして偉大なアーティストであることを実感させられた。

P.S.常設で見た福田平八郎の赤い三匹の鯉のフォルム、その美しさに見惚れてしまった。

長谷川等伯を訪ねてー能登七尾の旅2016年05月08日 22:06

この連休は念願の長谷川等伯を訪ねて能登へ旅した。
日経カルチャーのピンポイントのツアーに参加して、
何よりの収穫は等伯の風土を体感できたこととお寺のお坊さんのレクチャーだった。
エネルギッシュなお坊さんのレクチュアーで安土桃山時代の北陸・七尾の社会背景や仏教・法華経との関わりに開眼させられ等伯の成り立ちへの理解が一度に深まったこと。
当時、七尾は地方ではなかったのだ、そして等伯は決して田舎者ではなかったのだ。
当時は日本海側が物流の動脈で七尾は流通の拠点であり、その良港は関税や使用料で莫大な富が集まるところであったのだ。また日本海と琵琶湖の水路は都との距離は近かったので今思う以上に人の行き来つまり交流があったのだ。
そして富は都人を惹きつけた、という事は都の文化がリアルタイムで入ってきたことなのです。
今も残る等伯の作品の最高の画材から推察できるとのこと、宝石ともいわれる貴石から顔料は作られているから。

昨年の京都の<琳派展>を回った時、法華宗のお寺がいやに多かったことが合点できた。
というのは法華宗は経済の主軸を担う海外貿易流通業者、呉服や絵師、刃剣などの工藝関係者そして文化人が支えていたことであった。勿論等伯も法華宗の信者であった。

このパッションが高雅な香りを放つ「松林図」は近代、いや現代美術といってもよいのではないだろうか?
この筆さばきからは絵師とか宗教から解ぎ放たれた等伯の奥底から魂が伝わってくるから。

注;イメージは東京国立博物館アーカイブより。

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