<眼高手低>と吉原治良2013年05月02日 11:00

~ それをどう表現したらいいのか。等伯は答えを見出せないまま何度も手を加え、加えるごとに悪くなっていく気がして、出口の見えない苦しみの中で悶々としていた。
 眼高手低という。表現者は古今東西の名作を学んでいるので眼は肥えているが、自分の表現力はなかなかそれに及ばない。それゆえ何度も絶望の渕にたたき落とされ、そこを乗り越えようと懸命に研鑽をつむ。~

 安部龍太郎の「等伯」を読んでいたら眼高手低とゆう言葉に出合った。そして反射的に吉原治良が脳裏に浮かんだ。
この言葉こそ吉原の制作の苦しみを表す言葉はないのでは?
高々と具体美術のマニフェストは掲げたが肝心の自分の作品のスタイルがなかなか産み出せなかった。
それは画道を基礎から真摯に追求してきたが故にそれが枷になり自由な発想ができなかったのではないだろうか?
既成概念のないエネルギーに溢れた青年期の弟子達は吉原のマニフェストの追い風を受け易々と自己の作風を確立していく。そして評価されていく。
易々かどうか異論があろうがきっと吉原にはそう映ったのではないだろうか?眩しいような青年達のエネルギーが。
その時、リーダーとしての葛藤いかばかりであっただろうか?
田中敦子が、白髪一雄が、元永定正が華々しくスポットを浴びていく。
それにジェラシーの炎にも悩まされたのではないだろうか?才能に対するジェラシーは人間の根源的なものであるから。
アンフォルメ時代の作品にはその苦悩が滲み出ていると思う。
実際、50年代の後半は非常に苦しんでいた時で、嶋本・白髪・元永・村上の各氏を夜な夜な呼びつけられては駄々っ子のように当たり散らされたとか、ようやく<円>の時代に入り弟子達は夜の産褥場より解放され安堵したと聞く。
<眼高手低>等伯の苦しみのさわりが吉原のと重なり合った皐月の読書だった。

「天王寺で<ボストン美術館展>を観る」2013年05月03日 11:08

天王寺で<ボストン美術館展>を観る。
 このところ安部龍太郎に刺激され「等伯」に夢中、「龍虎図屏風」をお目当てに天王寺の<ボストン美術館展>に行った。
奈良平安時代の仏画、絵巻、鎌倉室町時代の水墨画や木像、安土桃山時代から江戸時代の狩野派や光琳、等伯そして蕭白。
一級の日本の美術品の揃い踏みにはただただ圧倒された。
天王寺がこれ程賑あうのも合点、おそらくボストンに行ってもこれほど纏めてはみられないだろうから。


年代順に構成された会場をまわって等伯の「龍虎図屏風」を目にしたときは海外の美術館で印象派などの部屋よりコンテンポラリーの部屋に入った時のようなそのフレッシュなエスプリーを受けた。なんだろうそれは?
そのコンテンポラリーなエスプリーは曽我蕭白の作品でますます展開していく。こんなにまとめて蕭白を観られるとは思いもよらない喜びだった。
それにしても何故これほどの日本美術の至宝が外国にいったのだろうか?
当事の文化に携わる人々は一体何をしていたのだろうか?
その怠慢と同時に国民の文化への関心の比率の低さのバロメータではなかろうか?
<具体美術>にしても今だに国内での評価は低く、代表作などはどんどん海外に流出されているこの現状と重なってくる。 
天王寺公園も整備され、通天閣も<あべのキューズタウン>に陰を薄くしていた。

<やっぱり等伯!>2013年05月05日 11:41

京都国立博物館の「狩野山樂・山雪」を観に行ってきた。本当のお目当ては目の先の智積院の等伯の障壁画。
命を張って生きた戦国の時代の文化人達、利休も永徳も等伯もその才能は生命との厳しい対峙にの上に花開かせたのだ。
だから作品にその緊張感漲っている。
永徳を継いだ山樂の作品にはそのダイナミックな生命の躍動感が漲っている。
それに比して山雪のコーナーに入ると工夫・創造の楽しみを感じる。垂直に延びるフォルムの構成やアニメチック動物の表現など知的な遊びが感じられる。政権の安定によるゆとりが伝わってくる。
山雪はバロック的な構図を意識して垂直な安定した造形スタイルを編み出したのだろう。
彼道徳の垂直な岩や古木、そして人物の描き方から徳川時代の始まりが伝わってくるようだ。
特に鳥や動物たちの描き方がカワイくそのまま今のアニメに取り入れられるのでは、と思う。
昨年訪れた吉野の吉水神社の襖絵「群鶴」も彼の作だった。 


智積院には度々来ている。そして等伯の障壁画観ているが今日の出会いはひとしおだった。
「楓図」に「松図」等からもの凄いエネルギーが向かってくる。こんな素晴らしい空間に身を置ける、これぞ誠の贅の限りだと思った。
そして若くして無念の生を閉じた、恐らく閉じさせられたであろう息子久蔵の「桜図」からは永遠の生命の輝きが発せられていた。
自己の首を差し出した美の求道者・利休、そして激烈な画道の求道者である長谷川等伯、利休好みの庭に座して思いを馳せていると安土・桃山時代が身近に思えてきた。そして "art " は時代の生証人だとの思いが深まった。
次のターゲットは竹橋の国立近代美術館の「松林図」。

田中知美さんの「不満」2013年05月07日 11:04

めらめらと立ち登る炎
その炎は決して赤くない
青でもない
腹の底より噴出する女の情念
火に焼かれ
情念は葡萄酒色になる

触れば壊れそう
だけど だけど 
しぶとく
情念を噴出する

四月の東京アートフェアーで出合った田中さんの「不満」、作品から立ち上ってくる何かに私の心が連動しました。そして今、手元で日々連動しています。

<母の日によせて>2013年05月12日 11:29

阿知波ヒサさまへ
 お別れしたのは94歳でしたね。あれから 7 年経ちました。生きている時はそれが当たり前のように思っていましたが、
この年になってあなたへの想いがつのります。そしてあなたの 存在感が増していきます。
おもえば波瀾万丈な生涯でしたね。
井伊家の御用商人の阿知波一族として彦根に生をなしました。幼稚園から女学校まで、当時では充分な教育を受け金銭的には恵まれました。
しかし7歳で母親を亡くしたことは生涯の心の渇望の因となったと思います。父親は典型的なボンボンで生涯働いたことはなく放蕩の生涯でしたね。遺したのは妾腹の弟二人でした。

結婚相手が絵描きとはまたまた苦労の始まりでした。プライドが高く感性の塊みたいな父によく付いていきましたね。
里に母親がいたら帰ってたでしょう。
でも苦労は戦後からです、滋賀に引き上げてからでした。明日のお米が無くても絵を描いている父、7人の子共を抱えてよく切り抜けたとそのパワーに脱帽します。
やがて父は結核で亡くなり、独力で子共達を成人させかたずかせました。ツテを上手く使ったその才覚はお見事でした。
貧乏しても貧乏臭いこと言わなかった、私はホラ吹いているのかと思っていましたが育ちだったのですね。
苦労の連続でしたが兄嫁が最後まで親身になって見送ってくれた晩年に救われる思いがします。
話好きで、花が好きで、そしてワイルドなヒサさんに今年のばらを捧げます!

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