彦根・楽々園の名物女将 西村おこうさん2013年06月03日 11:11

母の遺品の写真を整理していたら楽々園の女将・西村こうさんの米寿祝のが見つかりました。
楽々園は平成6年に営業を閉じ今はありませんが、明治初期から 百十数年続いた老舗料亭でした。
ここは私の母方の祖母の実家で、おこうさんは母の兄嫁に当たり名物女将として名を成した女(ひと)でした。
楽々園は玄宮園と併せて彦根藩の下屋敷でした。今では国指定の文化財となり中は見られませんが。
天皇様もお泊まりになられたとか、それに NHKの大河ドラマの 第一作「花の生涯」の原作者である船橋聖一がここに逗留しで書き上げたことでも有名です。
また進駐軍の将校たちが出入りしていたのをうっすら憶えています。

私は滋賀の五個荘に疎開していた時に母に連れられて何度が行きましたが、料亭独特の活気のある雰囲気を今も鮮明に憶えています。
客ではないのでいつも出入りは裏門からでした。裏口といっても相当な広さのたたきの水屋・板の間がありました。
その板の間で奥も水屋も一望できる所に長火鉢が置かれ、そこが女将さんおこうさんのポジションでした。
煙管を手にして次々と来る人々に対応する、始終板場や仲居さんたちの動きに目配りしている姿が思い浮かんできます。
すらっと背の高い方でしたが身のこなしがなんともカッコよかった、そして他の女とは格が違う風格があると女(ひと)だと眺めていました。
料亭の奥はそれこそ戦場で、実にいろいろな人が出入りしていました。
その活気は陰気な自分の家とは別世界に思われ、内向的だった子供心にもひととき日が差す思いがしました。

90過ぎまで女将を努められましたが、老舗料亭の女将ほど人間力が問われる職業は無いでしょう。
写真からもその大きくて深いお人柄と人格が伝わってくるようです。
母も何かにつけ実家に泣きつきにいったことでしょう。
素晴らしい<明治の女性>に敬意と感謝しつつ。

山楽・山雪のデジタルレプリカ2013年06月05日 11:02

先週大徳寺に行ったので今週は妙心寺にお散歩。ここは日本最大の禅寺とかそのスケールは格別で境内にタクシーが走る程です。
お寺廻りはあれもこれもと欲張らないことが肝心と梅雨の晴れ間の境内を歩いていると特別公開の案内がありました。
そこは天球院、岡山藩主池田光政が伯母天球院のため建立し開山は江山景巴とか、拝観料が千円とはちと高いなぁと思いながら重文の本堂に入りました。
なんとそこは先だって京博の「山楽・山雪展」で見た<梅花遊禽図襖><朝顔図襖>があるではないですか。ここから七条までお出ましだったのですね。
天井の高いワンルームの三面に連なる空間の中に身を置いて観るものなのです、本来は。二次元的な博物館のショーケースではなく四次元的に鑑賞するものなのですね。
せめて少しでもそれを体験できないかと止め柵から首を長くしましたが、、、一度でいいからあの真ん中に座ってみたいとゆう妄想に駆られました。
次の間も次の間も、、、部屋ごとに嗜好が凝らせてあるこの豪勢さに池田藩の、妙法寺の権勢が立証される思いがしました。

ガイドの学生さんの話によると<宝中虎ノ図襖絵><朝顔図襖>はなんとレプリカなんですって、、、調べれば京都文化協会とキャノンが共同で取り組んでいる「綴プロジェクト」だそうです。間違いなくやがて劣化していくこれらの文化財を後世に遺すためのプロジェクトです。
長谷川等伯のかの有名な『山水図襖』もレプリカもとなり高台寺で公開されています。鑑真和上坐像も複製したお身代わり像つまりレプリカに変わりました。
この調子でゆくと国宝級の仏像や絵画の実物に会う機会の最後の時代かもしれませんね、今世紀が。
思えばつい100年位前にはこれらのお宝には庶民が目にすることが無かった、できなかったのです。今はお宝の保存から博物館の倉庫にと大衆から離れていきます。
高度にデジタル化したレプリカとすり替えて。

実物とレプリカの違いは観る者の 感受性にどのような違いを興させるのだろうか?と、私は方丈の廊下に座しなかなか立てなかった。
ふと上を見上げると天井板に生々しい指の跡が、ガイドによれば「桃山の血天井」と云われ、この時代のお寺の建築には城などの遺構が供養のために多く使われたそうです。
やがて襖絵は全てレプリカになるでしょう。その時、血痕の天井が時代の生証人としてレプリカの襖絵に生命を与えるかもしれませんね。


画像:狩野山楽・山雪筆「竹に虎図襖」 江戸時代 キャノン ニュースリリースより

北村家の桜田門外の変との関わり2013年06月07日 11:00

これは明治 37 年(1904)約110 余年も昔の父の家族と使用人の写真です。 
右則で抱かれているのが2才の父・富三、その母つまり私の祖母が32才、すると真中の曾祖母は何才だろうか?
私は何故かこのお婆さんの風貌に強く心が惹かれるのです。
祖父・正七(順故)は近江商人で大層活躍した人なので殆ど不在、今でゆう単身赴任だったのです。ですから写真に写ってないのでしょう。
父・富三は55才の時の子供で、まるで孫のような年代の開きがあります。
それから合算してゆくと曾祖母は 80 才は過ぎているでしょうが? すると文政、天保、弘化、嘉永、安政、万延、文久 元治、慶応、明治と歴史的時代の変換期を体感してきているのです。
その連れ合いの曾祖父は伊井直弼の漢学者と聞いています。
江戸時代にあっては大名の中でも格別重きをなした彦根藩、長き安定した地位にあったであろう士族にとっては幕末の動乱はどんなに大きかったことでしょう。
お婆さんの貌を見つめていると大袈裟なようですが歴史の重みが伝わってくるようです。
その息子、私の祖父・正七が産まれたのが嘉永元年1848 年なので 1860 年の<桜田門外の変>の時は12才、彦根藩の没落が始まります。
14 才で近江商人の塚本商店(塚本定右衛門)に入った、ナルホド辻褄が合います。
士族の息子が商人に、その時の軋轢はいかほどであったでしょうか?その軋轢のエネルギーが塚本商店の小樽店の開発など大活躍して功績を残した原動力になった、と私は思いを馳せます。そして一枚の写真のインパクトに、それを遺した母の想いに、改めて心打たれました。

<待庵>に行って菅井さんを想いだした!2013年06月10日 11:04

念願の<待庵>にやっと行けた。 JR 山崎駅のすぐ向いの妙喜庵の中、今日の見学者は東京から来たデザイン系の学生さんと二人だけ。
高齢の庵主様からネットでおさらいしたひととりの説明を聞いて後はご自由にと、二人だけの貸し切りとはなんと贅沢なことだろう。
こじんまりした禅寺なので書院・広縁から庭に下りるとすぐお目当ての待庵が緑の中にあった。
あぁ、これが利休さんの茶室か、勿論茶室には入れませんので明かり窓からだが一目中を見やる。と、たちまちその峻厳な空気に打たれた。自然と襟を正された。
空間を造る縦横の木や竹の刻の色の深さよ、鼠色を帯びた床の間の土壁、そこは迂闊にはいれる空間では決してない。生半可な覚悟では身を置くことが出来ないと悟った。
額に窓の細竹の柵に精一杯押し付けて、息を殺して覗き続けた。薮蚊に襲われるままに。

 露地から手水鉢で手を清め潜り戸から中に入る、貴人畳を避けてこの当たりかな?炉の前の亭主とのこの距離、凄い緊張感ある距離だ。利休は秀吉や大名たち等伯もこの距離で対峙していたのだ。
しかしこれを創作した、考案したのが利休さんって凄いアーティストだ。今風にゆうなればインスタレーションとパフォーマンスのアーティストなのだ。深遠な哲学を持った。

帰りの電車から山崎の景色を眺めていると、何故か昨日芦屋の美術館で「菅井汲/松谷武判/purint works 展」の菅井さんのオート・ルートの作品が脳裏に浮かんできた。
ポルシェと煙草を愛しー1億より はみ出した日本人でありたいーとの有名な語録を遺して逝った菅井さんのが。
~超スピートの車の中での自己の存在を見つめるとか、、、菅井さんのオート・ルート時代の作品はこの緊張感が根底になっている。
色調も時代も違うが、無駄なものを一切省いた、そして自己の生命との対峙からくるこの緊張感こそ両者の共通点なのだと、独り納得。
この緑の中で菅井さんのハードエッジを観たいものだ。二つの生命の燃焼はどのように対峙するだろうか。

北村重兵衛さん2013年06月17日 21:54

昔むかし、田んぼで鍬の柄に持たれて空ばかり見上げていたおじいさんがいはったってよく聞かされてました。それはあなただったのですね!重兵衛さん。やっろ見つけましたよ。
あなたは井伊直弼の漢学と横笛の先生やったそうですね。桜田門外の変での彦根藩の没落により五個荘に田地を貰ってきはった、つまりリストラされたのですね。
私のおじいさんの正七さんが あなたの次男で1848 年に生まれてはります。それから換算するとあなたは文化・文政時代のお生まれでしょうか。長く続いた安泰の江戸時代の末期、激動的な時代に遭遇されました。
井伊直弼さんとの接点を想像してみますね。
今では歴史に遺る井伊直弼さんですが、その殆どが僅かの扶持での部屋住まいでした。
藩主になったのは 35 才ですから権力と羽振りが良かったのは 10 年位でしょう。それに大老になり殆ど江戸住まいでした。
恐らく重兵衛さんの接点は埋もれ木時代だったのではないでしょうか?直弼さんはきっと能力のある方だったでしょう。
長子以外の男子はリリーフ用、それも一人二人なら登板の望みもありますが十番目以上ですから殆どその可能性はなかったと、それでエネルギーを学問に茶道や能楽など芸能に向けられた。
その姿勢は純粋だったと思います。そして側近達もきっと野心のない純粋な人たちが集まってきたのではないでしょうか?
類は類を呼ぶとか、部屋住みの主では決して多くの扶持は貰えなかったでしょう。重兵衛さんもその側近の一人だったのでしょう。恐らく大名家の中の大名、彦根藩士といえどもきっとつつましい扶持で暮らしていたのではないでしょうか?
人間を二分すると物質の追及者と精神・智の探求者に分かれます。重兵衛さんは後者のタイプでしょう。
いきなり田地を与えられて自立させられても対応できなかったでしょう。その分奥さんのみかさんが大変苦労したとか聞いています。そして次男の正七さんが発奮して近江商人のシンボルの的な塚本定衛門の店に入り小樽店の土台を造るなど大層活躍しましたね。
しかしあなたの DNN は山頭火のように一生漂白の旅をした孫の仁蔵さんや洋画家の富三さんに、そしてだいぶ薄まりましたがひ孫の私にも流れていますよ、確かに。
~田んぼで鍬の柄に持たれて空ばかり見上げていた重兵衛さん~建物はちょっと変わりましたが、広がる翠の水田、優美な観音寺山の稜線、そして雲は今も同じように流れていますよ近江野は!

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