父・北村富三の展覧会 ― 2016年01月12日 18:16
昨日は父・北村富三の展覧会のオープ二ングのセレモニーがあった。朝9時とは、大阪からはちょっときついが挨拶の任務があるので遅れてはならない。暖冬に救われた。
久し振りの八日市、会場の文化芸術会館に急ぐ。早朝にも 関わらず続々と人が集まってくる。
百人はいたのでは、式が始まる。
さぁ、私のスピーチの番、逃げることはできない。なんとか話せたがどれだけ伝わったかな?
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この度は父・北村富三の展覧会を開催していただきましたことに心より御礼申し上げます。関係者の皆様のご尽力に深く感謝申し上げます。
富三は明治 36年 (1903) 五個荘町宮荘の近江商人・北村正七の未子として産まれました。
生まれつき病弱で学業もままなりませんでしたが、絵を描くことが好きで、23 才の時に当時の京都洋画画壇の重鎮・寺松国太郎氏に師事し本格的に洋画を学びました 。
その甲斐ありまして 25才の時に帝展に入選し画家の道に進むことを決意しました。
当時の帝展入選はそれだけの重みがあったのです。
ちなみに有鄰館さまの「藤井善助邸」はこの頃の作品です。
善助邸の隣が富三の生家でした。隣家の名士様からのオーダーに若き富三はさぞや励まされたことでしょう。
富三は尚一層の高みを目指し、安井曾太郎の門下生となり、、上京しました。安井先生は弟子をとらないことで有名ですがその数少ない弟子の一人でした。
安井曾太郎の属する「二科会」に出展していましたが、清廉潔白な安井先生は商業ベースに流れる「二科会」を離脱して「一水会」を創立され、富三も同行しました。
下落合時代は春から夏にかけて満州に渡り,政府の高官や満鉄の理事などの後援を受け、画家としても,家庭人としても最も充実した時期でした。
やがて激しい戦局を迎え郷里の五個荘に疎開しましたが、それは富三にとりまして最も困難な時代の始まりでした。
生活苦と病魔の中、夜遅く阿修羅のような姿で描いていた様が今も私達子供の脳裏に刻まれています 。
「長女の像」「猫を抱く少女」「庭の薔薇」などのはこの時期の作品です。それらの作品は限られた富三の生命の燃焼の証でもありましょう。
やがて結核が進み八日市国立療養所に入りましたが、昭和 31年1月25日、まるで師の安井曾太郎の後を追うように亡くなりました。
~もっと絵を描きたい~と病床で言っていた言葉を思い出します。志半ばで倒れたことがいかに無念であったと思います。
しかしこのように半世紀余を経て郷里で展覧会を開催していただけることは富三にとりましてこの上ない喜びだと思います。
私たちにとりましても感無量です。
そして、たいした画業を残せませんでしたが、北村富三は真摯に画道を追求した画家の一人であったことを私たちは誇りに思っています。
作品について一言 絶筆の「庭の薔薇」は、疎開していた近江商人の高田善右衛門邸の裏庭に自ら挿し芽して育てた薔薇を描いたものです。
昆虫や草花を描いたスケッチシリーズは 8/15日 前後の明日の食料も定かでない時に描いた作品です。
画家である富三にとりましては、ひたすら描くことしかなすすべがなかったのです。
また和田の中村家寄贈の「母と子」は終戦直前の作品でしょうか?ゲートルを巻いた正太郎氏と母堂、そしてご自慢の前栽を描いた作品からは、大切なものを遺したいという主(あるじ)の意思が伝わってきます。
実際、描く者も描かれる者も明日の運命が定かでない時代でした。
後になりましたが作品を長らく保管していただいた近江商人博物館さま、有鄰館さま、和田の中村家始め多くの方々に心より感謝申しあげます。
展覧会の開催を、父・富三に代わり、苦労を共にした母に代わり、また亡き兄に代わり、姉妹を代表し深く御礼申し挙げ挨拶とさせていただきます。
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会場は去年北山善夫展と同じ広いワンルームだが、作品を活かすセンスの良い展示がされていた。恐らく担当者は試行錯誤されたことだろう。光源もよく油彩が自然で美しく見られた。
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